オリンピックや国際選手権の中・長距離競技において、ケニア人選手は目覚ましい活躍をみせています。ケニアの中でもトップランナーを輩出している地域はリフトバレー州に集中し、民族はカレンジン人です。男子マラソン世界記録保持者(2018年8月時点)のデニス・キプルト・キメット(Dennis Kipruto Kimetto)もエルドレッド出身のカレンジンです。興味深いのは、ケニアの有力長距離ランナーはケニア全土から選び抜かれたのではなく、一部の地域から輩出されていることです。
世界の地域別に男性選手のオリンピックおよび世界選手権におけるメダルの数、およびマラソン競技におけるトップ25入りした選手数を、表1に示しました。まず、ケニア人選手はオリンピックでは64個(全メダルの32.3%)、世界選手権では88個(全メダルの34.9%)と合わせて152個のメダルを獲得しています。この数はマラソンの強豪国エティオピアを含むアフリカ諸国の合計数145個、欧州諸国の合計数100個をケニア1か国で上回っていることになります。また、マラソンのトップ25入りしたケニア人選手は262人にのぼり、世界の全選手(600人)の43.7%を占めています。
表1 世界の地域別にみるオリンピックおよび世界選手権におけるメダリストの数、マラソン競技におけるトップ25入りの選手数
国・地域名 | オリンピック | 世界選手権 | マラソン競技トップ25 | |||
メダル | 割合(%) | メダル | 割合(%) | 人数 | 割合(%) | |
ケニア | 64 | 32.3 | 88 | 34.9 | 262 | 43.7 |
その他アフリカ | 57 | 28.8 | 88 | 34.9 | 128 | 21.3 |
欧州 | 46 | 23.2 | 54 | 21.4 | 102 | 17.0 |
米国 | 14 | 7.1 | 10 | 4.0 | 25 | 4.2 |
大洋州 | 8 | 4.0 | 3 | 1.2 | 8 | 1.3 |
アジア | 6 | 3.0 | 4 | 1.6 | 60 | 10.0 |
南米 | 3 | 1.5 | 5 | 2.0 | 15 | 2.5 |
合計 | 198 | 100.0 | 252 | 100.0 | 600 | 100.0 |
次に、ケニアの民族別に獲得メダル数とトップ25入りした選手数を示したのが、表2です。カレンジン人については、さらにサブグループに分けて示しています。ケニア人のうち最もメダルの獲得数、世界選手権25入りした選手数が多いのがカレンジン人です。オリンピックのメダル数は54個(84.4%)、世界選手権では77個(87.5%)、トップ25入りしたカレンジン人選手は206人(78.6%)におよびます。次にメダル数が多いキクユ人に大差をつけています。そして、カレンジン人のサブ・グループ別(ナンディからツゲンまで)をみると、ナンディ人がオリンピックメダル数33個、世界選手権メダル数39個で、カレンジン人の中でも突出しています。つまり、ケニア人の中ではカレンジン人、さらにカレンジン人の中でもサブグループのナンディ人に有力選手が集中していることがわかります。
表2 ケニアの民族別にみるオリンピックおよび世界選手権におけるメダリストの数、マラソン競技におけるトップ25入りの選手数
民族名 | オリンピック | 世界選手権 | マラソン競技トップ25 | |||
メダル | 割合(%) | メダル | 割合(%) | 人数 | 割合(%) | |
カレンジン | 54 | 84.4 | 77 | 87.5 | 206 | 78.6 |
ナンディ | 33 | 51.6 | 39 | 44.3 | 86 | 32.8 |
ケイヨ | 5 | 7.8 | 10 | 11.4 | 38 | 14.5 |
キプシギ | 7 | 10.9 | 6 | 6.8 | 45 | 17.2 |
マラクワット | 5 | 7.8 | 15 | 17.0 | 5 | 1.9 |
ポコット | 1 | 1.6 | 3 | 3.4 | 2 | 0.8 |
サボット | 0 | 0.0 | 1 | 1.1 | 8 | 3.1 |
ツゲン | 3 | 4.7 | 3 | 3.4 | 22 | 8.4 |
キクユ | 6 | 9.4 | 3 | 3.4 | 28 | 10.7 |
マサイ | 1 | 1.6 | 7 | 8.0 | 2 | 0.8 |
キシイ | 3 | 4.7 | 2 | 2.3 | 16 | 6.1 |
カンバ | 1 | 1.6 | 0 | 0.0 | 10 | 3.8 |
トゥルカナ | 0 | 0.0 | 1 | 1.1 | 0 | 0.0 |
ケニア 合計 | 64 | 100 | 88 | 100 | 262 | 100 |
出典 Tucker et al.(2015, p.287)を基に筆者作成
ケニアの民族数は42以上あり、40以上の母語があるといわれています。最も大きな民族はキクユ(Kikuyu)人で全人口の17.2%を占め、次に、ルヒヤ(Luhya)人の13.8%、そして、カレンジン(Kalenjin)人の12.9%と続いています。ケニアでは英国植民地時代に行政区域が民族ラインで8州に分けられた経緯があり、地域によって主に居住している民族が異なります。リフトバレー州は、カレンジン人が46.7%と約半数を占め、リフトバレー州に位置するウアシン・ギッシュ県(Uasin Gishu County)はカレンジン人のサブ・グループであるナンディ人が「自分たちのもの」と信じていると言われ、ナンディ人が多く居住している地域です。
ウアシン・ギッシュ県(Uasin Gishu County)は海抜1,500 mから2,700mの西部の高原地帯に位置します。年間の降雨量は平均625 mmから1,560 mmで、3月から9月(5月と8月がピーク)は雨期、11月から2月は乾期にあたります。気温は7℃から29 ℃であり、このような気象状況は家畜の飼育や穀物の栽培、魚の養殖に適しています。ケニアでは比較的恵まれた豊かな地域といえます。
なぜ、カレンジン人(ナンディ人)は足が速いのでしょうか。
カレンジン人の優位性については、様々な要因が検討されています。
- 遺伝説
- 恵まれた地理的・環境的条件説
- 独特の経済行動や伝統習慣といった歴史的文化的背景説
- 身体的特徴説
- 経済的要因説
- 民族特有の精神性説 など
ヤニス・ピツラディス(Professor Yanis Pitsiladis, University of Brighton)はナンディ人ランナーの優位性について、遺伝的要因を検討した研究者です。ピツラディスは数年に渡り、リフトバレーを拠点とする陸上競技者(元競技者も含む)の口の中から綿棒で粘膜を採取し、DNAを集めました。彼は、ナンディ人の特徴的な身体タイプは、人口が孤立した結果、遺伝子プールが自然淘汰と性淘汰によって、他の集団とはかけ離れたものになったという仮説を立てました。しかし、DNAの分析結果は、ピツラディスの予測とは正反対にナンディ人は孤立した人口群どころか、きわめて多様なDNAを持ち、何世紀にもわたって移住が行われてきた集団であることがわかりました。長距離競技の優位性と遺伝の関係は立証できなかったのです。
カレンジンの有意性は足のスネが長いという身体的特徴や水分摂取量や食事の量が少なく、体が軽いためなどとも論じられています。私がカレンジン人の強さを論じる上で注目したいのは、その意欲の高さと民族特有の精神性です。
ウアシン・ギッシュ県エルドレッド市の近郊にはいくつもの「キャンプ」と呼ばれる高地トレーニングの練習拠点があります。人々にとって世界で活躍する選手たちは身近な存在です。選手たちは海外で獲得した賞金を家族やきょうだいの教育費などに使うだけではなく、地域社会にも還元しています。ある選手は賞金の一部を若手選手の奨学金や用具、教育、コーチングの経費などの基金として支援しています。陸上競技選手に貧困から脱するため、家族を経済的に助ける手段としてなった者も多く、経済的な要因は選手の高い意欲と結びついています。世界にケニアの名を広め、地域社会の発展に尽力している陸上選手は人々にとっては英雄です。エルドレッド市内には、1968年のメキシコオリンピックでケニア初となる金メダルを獲得したキプチョゲ・ケイノ(Kipchoge Keino)から名前をつけた陸上競技場(Kipchoge Keino Stadium)があります。キプチョゲ・ケイノは、その後に続く陸上選手に大きな影響を与えたのみならず、現在は孤児の支援活動を行い、地域社会に貢献し続けています。こういった陸上選手の活躍は若い選手の高い意欲に繋がっています。
また。忠鉢氏はカレンジンランナーの強さを探る取材を通して、その速さの秘密はメンタリティー(精神性)にあると結論づけています。忠鉢氏の指摘を参照します。
カレンジンランナーが特別だと思えるところは、もう一つしか残されていなかった。キャンプで練習しているランナーたちが、「練習すれば速くなれる」「人にできたのだから自分にもできる」と信じきっていたことだ。(忠鉢 2008, p.206)
マーティン・レル(ロンドンマラソンで3度優勝、ニューヨークマラソンで2度優勝)のインタビューから
ナンディのライフスタイルをレルは誇りにしていた。「団体生活と規律を重んじる部族だ。一緒に暮らしているコミュニティーをとても大事にする。―中略―レースのときも、ナンディなんだからできると自然に信じられる。だって同じナンディで、同じものを食べて、同じような集団生活をして育ってきたから、自分だって早く走れないはずがないでしょう」彼らのメンタリティーが彼ら独特の生活を通じて受け継がれているのがよくわかる話だった。(pp. 250-251)
ナンディ人は「他の人ができるのだから自分もできる」、「同じナンディ人なのだから自分もできる」という高い自信を持っています。リフトバレー州にあるキャンプを取材した石川氏も、ケニア人選手は世界記録を破るんだと信じて疑わないと述べています。
私はウアシン・ギッシュ県で子ども達の学習意欲について調査したことがあります。「社会経済的背景が不利な子どものほうが学習意欲は低い」という仮説を立てました。社会経済的背景とは保護者の教育年数と家財所有数からなります。ところが調査を行った結果、社会経済的背景が恵まれている子どもとそれ以外の子どもとの間に「学習に対するやればできる」という自信に有意な差はありませんでした。多くの先行研究で社会経済的背景によって子どもの学習意欲に差があることが支持されています。その理由は何か。調査地のナンディ人のマラソンでの活躍を調べることで、不利な境遇でも自分はできるという子ども達の高い自信は民族特有の精神性からきているのだと確信しました。
なぜカレンジン人(ナンディ人)は足が速いのか。民族特有の精神性だけではなく、その要因は複合的なものと考えられていますが、民族特有の精神面が世界の頂点にまで押し上げるひとつの大きな要因であることは驚くばかりです。
参考文献:
忠鉢信一, 2008, 『ケニア!彼らはなぜ速いのか』文藝春秋.
石川和博, 2012, 「アスリート養成」松田素二・津田みわ編『ケニアを知るための55章 』明石書店, pp.171-174.
Larsen, Henrik B., Thomas Nolan, Christian Borch and Hans Søndergaard, 2005,“Training Response of Adolescent Kenyan Town and Village Boys to Endurance Running,” Scandinavian Journal of Medicine & Science in Sports, 15(1), pp. 48-57.
松田素二・津田みわ編, 2012, 『ケニアを知るための55章 』明石書店.
Pitsiladis, Y., Onywera, V., Geogiades, E., O'Connell, W., and Boit, M., 2004, “The dominance of Kenyans in distance runnin,” Equine and Comparative Exercise Physiology, 1(4), pp.285-291. doi:10.1079/ECP200433.
Pitsiladis, Yannis, John Bale, Craig Sharp, and Timothy Noakes, 2007, East African Running: Toward a Cross-Disciplinary Perspective, Routledge.
Syed, Matthew,2010, Bounce:Mozart, Federer, Piccasoand Beckham and the Science of Success, Harper Collins Publishers, New York (=2010, 山形浩生・守岡桜訳, 『非才!―あなたの子どもを勝者にする成功の科学』柏書房).
Tucker, Ross, Onywera, Vincent O. and Santos-Concejero, Jordan, 2015, “Analysis of the Kenyan Distance-Running Phenomenon”, International Journal of Sports Physiology & Performance, 10(3), pp.285-291.